日高市でお話してきました

今日は、日高市で「なぜDVは止められないのか―見えにくい暴力と周囲のかかわり―」をテーマにお話ししました。

講座の後、地域で区長を務めているお二人から、よく似た質問をいただきました。

「地域に少し気になる人がいる。でも、どのタイミングで、どのように声をかけたらよいのか分からない」

とても大切な質問だと思いました。

地域で暮らしているからこそ、いつもと違う様子や、生活の中の小さな変化に気づくことがあります。しかし、「家庭のことに立ち入ってよいのだろうか」「自分の思い違いかもしれない」と迷うのも当然です。

特にDVが疑われる場合には、善意から直接介入したことが、かえって本人を危険にさらしてしまう可能性もあります。加害者に注意したり、夫婦を仲裁したりすることが、必ずしも安全につながるとは限りません。

だからこそ、地域の方にすべてを判断してもらうのではなく、「気になる」という段階で行政や専門機関に相談できることが大切です。

すぐに答えが出なくても構いません。

「最近、姿を見かけなくなった」

「以前より元気がないように見える」

「家から怒鳴り声が聞こえることがある」

「子どもの様子が気になる」

そうした断片的な情報が、別の場所で把握されている情報とつながり、必要な支援を考えるきっかけになることがあります。

一方で、地域の方からすれば、「どの窓口に、どの段階で、どのように相談したらよいのか」が分かりにくいこともあります。行政と地域の方々が顔の見える関係をつくり、相談先やつなぎ方をあらかじめ共有しておくことが、安心して動くための支えになるのではないでしょうか。

区長さんの役割は、DVかどうかを判定したり、一人で問題を解決したりすることではありません。小さな変化に気づき、関係を切らず、必要なときに適切な窓口へつなぐ。それだけでも、とても大きな役割です。

今日いただいた質問から、地域にはすでに「気づいている人」「心配している人」がいることが分かりました。

その気づきを一人で抱え込まず、地域と行政、専門機関が一緒に支援へつなげていく。そんな仕組みを育てていくことも、DVを地域で止めるための大切な一歩なのだと思いました。

「何回言ってもできない部下」に責任はあるのか――

過失割合という考え方から見えてくるもの

先日、ある研修会でこんな質問をいただきました。DVとハラスメントのお話をした時のことです。

「何回言ってもできない社員を叱るとパワハラと言われる時代ですが、本当に上司だけが悪いのでしょうか。部下にも過失割合があるのではないでしょうか。」

とても興味深い質問でした。

私は、「過失割合」という言葉は職場ではあまり適切ではありませんが、責任を一人だけに求める問題でもないとお答えしました。

例えば、部下が何度説明しても業務を理解できないとします。そのとき、「何回言っただろう」と腹が立つ気持ちは自然なことです。しかし、マネジメントにはもう一つの視点があります。

それは、「その人が理解し、実行できる仕組みは整っていたのか」という問いです。

業務マニュアルはあるのか。チェックリストは整備されているのか。どの段階までできれば一人前なのかというキャリアパスは明確なのか。教える人によって言うことが違っていないか。

こうした仕組みが十分でなければ、できない理由は本人だけにあるとは言えません。組織にも改善すべき課題があります。

もちろん、必要な教育や支援を受け、それでも改善しようとしないのであれば、本人の責任が問われる場面もあります。しかし、それは組織として「できるようになる環境」を整えた後の話です。

私はDVやハラスメントの研修で、「過失割合」という考え方について話すことがあります。ただし、ここで誤解してはいけないことがあります。

DVやハラスメントでは、「被害者にも責任がある」という意味で過失割合を考えることはありません。暴力や人格を傷つける行為は、加害者が負うべき責任です。

一方で、職場の人材育成は別の問題です。

人材育成では、本人の努力だけでなく、管理職の育成力や組織の教育体制も成果に大きく影響します。つまり、「誰が悪いか」を決めるのではなく、「どうすればできるようになるか」を考えることが重要なのです。

「何回言ってもできない部下」と嘆く前に、「何回でも理解できる仕組みになっているだろうか」と問い直してみる。

その視点を持つことが、パワハラを防ぎ、組織を強くする第一歩なのではないでしょうか。

取材を通して改めて伝えたかったこと

このたび、取材を受けた内容が記事になりました。記事では、DVや家族の中で起きる暴力、そして加害者更生プログラムについて、現場で感じていることをお話ししました。

取材では限られた時間、限られた文字数の中でお話しするため、どうしても伝えきれない部分があります。そこで、この記事では私が一番伝えたかったことを少し補足したいと思います。

「暴力」は突然始まるものではない

DVというと、殴る、蹴るなど身体的暴力が注目されます。

しかし、実際にはその前から、

  • 相手の交友関係を制限する
  • 行動を細かく管理する
  • 怒りや不機嫌で相手をコントロールする
  • 「お前のためだ」と言って自由を奪う

といった支配的な関わりが積み重なっていることが少なくありません。

そのため、私たちは「暴力があったかどうか」だけではなく、「二人の関係の中で何が起きているのか」を見ています。

加害者更生プログラムは「許すため」のものではありません

加害者プログラムについて誤解されることがあります。

「加害者を甘やかすものなのではないか」
「反省すれば終わりなのか」

そうではありません。

プログラムの目的は、暴力を正当化してきた考え方や行動パターンに本人が向き合い、二度と暴力を繰り返さないために責任を引き受けることです。

もちろん、その大前提として被害者の安全確保が最優先です。

被害者支援と加害者対応は対立するものではなく、再発防止という点では両方が必要だと考えています。

現場だから見えることがある

私は長年、DV被害女性の支援と加害者更生プログラムの両方に携わってきました。

だからこそ見えてくるのは、「被害者だけ」「加害者だけ」を見ても問題は解決しないということです。

支援機関、教育、司法、地域社会、それぞれが役割を果たしながらつながっていくことで、初めて暴力の連鎖を断ち切ることができます。

今回の記事が、多くの方にDVや加害者更生について考えるきっかけになれば幸いです。

記事はこちらからご覧いただけます。

https://news.yahoo.co.jp/articles/640bc3eff3e47275091cd17d1ef57b4f2ed28823

これからも、現場で見えていることを、一つひとつ発信していきたいと思います。

親の懲戒権と孤立

有名人が娘への暴行で逮捕されたというニュースが話題になっている。

こうした報道があるたびに、社会にはさまざまな反応が出る。

「昔はこれくらい普通だった」
「親も大変なんだから」
「家庭内のことに外が口を出しすぎではないか」

一方で、

「それは虐待だ」
「どんな理由があっても暴力は許されない」

という声も上がる。

この議論を見ていると、今、日本社会は「しつけ」と暴力の境界を大きく見直す時代に入っているのだと感じる。

2022年、民法から親の「懲戒権」という規定が削除された。

これは単なる法律の文言変更ではない。

「親だから叩いてもいい」
「教育のためなら仕方ない」

という考え方そのものを、社会として問い直し始めたということだ。

もちろん、子育ては簡単ではない。

眠れない日々。
思い通りにならない現実。
反抗期。
経済的不安。
孤立。

親自身が追い詰められていることも少なくない。

だからこそ、「つい手が出てしまった」という現実は起こり得る。

しかし、追い詰められていることと、暴力が許されることは別である。

ここを曖昧にすると、「愛情があれば暴力も許される」という危険な考え方につながっていく。

そして、この構造はDVやハラスメントともよく似ている。

「相手のためを思って」
「教育のため」
「成長してほしいから」
「自分もそうやって育てられた」

こうした“正当化の言葉”によって、暴力は見えにくくなる。

特に、有名人の場合はさらに複雑だ。

社会的に成功している。
仕事では立派に見える。
テレビでは優しそうに見える。

すると周囲は、「そんな悪い人ではない」と解釈したくなる。

ここには、私たち社会の「見て見ぬふり」の構造もある。

暴力は、加害者だけで成立するわけではない。

「家庭のことだから」
「昔は普通だった」
「本当はいい人だから」

そうやって周囲が意味づけを行うことで、暴力は“特別なものではないもの”として処理されていく。

ただ一方で、単純に「親が悪い」で終わらせても、問題は解決しない。

孤立した育児。
相談できない親。
感情を言葉で扱うことを学ばないまま大人になった人たち。
「怒鳴る」「威圧する」以外の関わり方を知らない環境。

そうした社会構造の問題も同時に存在している。

だから必要なのは、

「暴力は許さない」

と同時に、

「親を孤立させない」

という視点なのだと思う。

暴力を個人の問題だけに閉じ込めるのではなく、社会全体の課題として考えていく必要がある。

有名人の事件は、単なるゴシップではない。

そこには、私たちの社会が「どこまでの暴力を許容しているのか」が映し出されている。

「怒ってはいけない社会」になったら、人は無表情になるのか

DV加害者プログラムで、「怒り」をテーマに話し合うと、よく出てくる言葉があります。

「でも、怒りを出しちゃいけない世の中になったら、みんな無表情になってしまうんじゃないですか?」

先日も、そんな意見が出ました。

たしかに、その感覚はよくわかります。

怒るな。
イライラするな。
感情的になるな。

そう言われ続けると、人はだんだん、「じゃあ何も感じるなってことか」と思い始めます。

怒りは、人間の自然な感情です。

理不尽な扱いを受けたとき。
傷つけられたとき。
大切なものを踏みにじられたとき。

怒りは、「これは嫌だ」「ここは越えてほしくない」というサインでもあります。

だから、怒りそのものをなくそうとすると、たしかにどこか不自然になります。

問題なのは、「怒ること」ではありません。

問題になるのは、“怒りを使って相手を動かそうとすること”です。

たとえば、

  • 不機嫌な態度を続ける
  • ため息をつく
  • 無視をする
  • 空気を重くする
  • ドアを強く閉める
  • 「俺は怒っている」と態度で知らせ続ける

こうした行動は、一見すると暴力には見えません。

本人も、
「怒鳴ってない」
「殴ってない」
「ただ機嫌が悪かっただけ」
と思っていることがあります。

でも、周囲の人は、その空気を敏感に読み取ります。

「また怒らせるかもしれない」
「今は黙っておこう」
「機嫌を取ったほうが早い」

そんなふうに、場全体が“怒っている人中心”に動き始めることがあります。

すると、怒りは「感情」ではなく、「支配する力」になっていきます。

ここが、とても重要なポイントです。

加害者プログラムでも、「怒りを我慢している」という感覚を持っている人は少なくありません。

「本当は怒鳴りたいけど我慢した」
「手を出していない」
「爆発していない」

だから、「自分は努力している」と感じている。

もちろん、それ自体は一歩です。

ただ、その“我慢”が、

  • 不機嫌オーラ
  • 無言の圧力
  • 空気の支配

として周囲に広がっていることもあります。

そして周囲は、その怒りを避けるために沈黙を選ぶようになる。

「怒りを出してはいけない社会」は、たしかに息苦しいかもしれません。

でも、「怒りを出した人が場を支配する社会」もまた、別の意味で息苦しい。

大切なのは、怒りをなくすことではなく、

「怒りを感じること」と
「怒りで相手をコントロールすること」

を分けて考えることなのだと思います。

怒りはあっていい。
ただ、その怒りを、誰かを従わせるための空気に変えない。

そこに、人間関係の大きな分かれ道があるのかもしれません。

A面とB面、2つのようで1つの話

DV加害者プログラムで、よく使っている教材があります。

DV加害者プログラムで、最近よく使っている教材があります。

ひとつの出来事を、
夫(参加者)側と、そのパートナー側の両面から見ていくものです。

同じ場面を、夫側の視点とパートナー側の視点の両方からたどることで、ひとつのストーリーを“両面から”見ることができます。

興味深いのは、それが必ずしも同じ意味として立ち上がるわけではない、という点です。

むしろ、同じ出来事であっても、まったく違うストーリーとして受け取られていることも少なくありません。

どちらかが間違っている、という単純な話ではなく、そのあいだにどんなズレが生まれているのか、そのズレの中で何が起きているのかを、丁寧に見ていく。

それ自体が、このプログラムの大事なプロセスです。

実際にこの教材を使った参加者からは、「被害者の気持ちがよく分かって、身につまされた」という声がありました。

日常の中にある、ほんの小さなやり取りの中にも、関係性を形づくる重要な要素が含まれています。

だからこそ、出来事の表面だけではなく、その裏側にある見え方や受け取り方に目を向けていくことが、関係を見直すきっかけになると感じています。

シンプルな構造の教材ですが、取り組む中で、自分の見ていた世界が少しずつ広がっていく。
そんな変化が生まれることの多い内容です。

女子高でデートDVの話をしてきました

今日は、女子高校でデートDV予防の授業をしてきました。

テーマは
「それって愛なの?」

恋愛の話から入る、いつものスタイルです。

最初にやったのは、ちょっとした“実験”。

ペアを組んでもらって、
片方は目を閉じた状態で、
もう片方が「どうやって握手するか」を考える。

声は出さない。方法は自由。

結果は、毎回おもしろいくらいバラバラになります。

強引に手を引く人もいれば、
そっと触れて様子を見る人もいる。

ここで伝えたかったのはひとつ。

「同意」って何か、体で考えること。

言葉がなくても、
相手がOKかどうかを感じ取ろうとする姿勢。

これがない関係は、うまくいかない。

「ラブラブ」と「しんどい恋愛」

授業ではまず、理想の恋愛を出してもらいます。

・ラブラブ
・毎日楽しい
・一緒にいたい

いわゆる“キラキラした恋愛”。

でも次に聞くと、ちゃんと出てくるんです。

・束縛がつらい
・バカにされる
・怖い
・楽しくない

つまり、

恋愛って、幸せなものだけじゃない。

ここをちゃんと認識するところからスタートです。

YES / NOが盛り上がりすぎる問題

今回もやりました。

  • 毎日連絡するのが普通?
  • スマホを見るのはアリ?
  • 「誰といるの?」って聞くのは普通?
  • 好きだから束縛するのはOK?

これ、めちゃくちゃ割れます。

そして面白いのは、

交際している子ほど迷う。

頭では「それって違うよね」と思っていても、
実際の関係の中では「まあいいか」となっている。

ここに、デートDVの入り口があります。

デートDVは「特別な話」じゃない

「暴力」と聞くと、

殴る・蹴るをイメージする子が多い。

でも実際には、

  • 束縛
  • 無視
  • 見下す言葉
  • SNSでの監視

こういうものも全部含まれます。

そして怖いのは、

最初から怖いわけじゃないこと。

むしろ優しいところから始まる。

だから気づきにくい。

「それって愛なの?」を問い続ける

今回の授業で何度も繰り返した言葉。

「それって愛なの?」

好きだから心配する
好きだから束縛する
好きだから我慢する

本当にそうなのか?

ここを立ち止まって考えられるかどうかで、
関係は大きく変わります。

女子高だからこそ伝えたこと

今回は女子高だったので、特に強く伝えたのはここ。

  • 自分の体は自分のもの
  • イヤなことはイヤと言っていい
  • 妊娠も性感染症も「知っていれば防げる」

「好きだから」では守れないことがある。

これは、ちゃんと現実として伝えないといけない。

最後に

授業の最後に伝えたこと。

「頑張る恋愛じゃなくて、楽でいられる恋愛をしてほしい」

これ、シンプルだけど本質です。

無理しないと続かない関係は、どこかがおかしい。

恋愛は本来、安心できるもののはずだから。

女子高生たちは、よく考えていました。

そしてちゃんと迷っていました。

その迷いこそが大事だと思っています。

正解を押し付けるのではなく、
自分で考える力を持ってほしい。

そんな授業でした。

エアタグの問題は「追跡技術」ではない

最近、取材でエアタグを使ったストーカーの話をしました。

正直に言うと、最初は「また新しい怖い道具の話か」と思われるかもしれない、と感じていました。
でも話してみると、記者の方から「それは今まで気づかなかった」と言われたのです。

私が伝えたのは、エアタグの使い方ではありません。

もっと根本的なことです。

多くの人は、ストーカーを
「別れたあとに急に始まる異常な行動」だと思っています。

でも現場で見ていると、そうではありません。

ストーカー行為は、もともとの関係の中にあった
“監視的な関わり”が強くなったものです。

たとえば、

・「誰といるの?」と頻繁に聞く
・返信が遅いと理由を求める
・予定や行動を把握しようとする

こうした行動は、恋愛の中で
「普通」「心配しているだけ」と受け止められがちです。

けれど、それはすでに“監視”の入り口かもしれません。

加害者の多くは、自分の行動を問題だとは思っていません。

むしろ、

「好きだから気になる」
「心配しているだけ」

と考えています。

つまり、支配が“やさしさ”として語られているのです。

そして、相手が嫌だと言っても、

「本当は嫌じゃないはず」
「一時的な感情だろう」

と解釈してしまう。

ここで、関係の境界線は崩れていきます。

ここでエアタグの話に戻ります。

エアタグは確かに便利な道具です。
そして、その便利さゆえに問題にもなります。

でも、本質はそこではありません。

エアタグは、

もともとあった「相手を把握したい」という欲求に
手段が与えられただけです。

つまり、

新しい犯罪が生まれたのではなく、
もともとの行動が強化されたのです。

もう一つ重要なのは、周囲の存在です。

・「恋人なら普通じゃない?」
・「それくらいで怒るの?」

こうした言葉が、違和感を飲み込ませます。

本人も、周囲も、
「問題だと気づかないまま進んでしまう」

これが、行動をエスカレートさせる土台になります。

違和感は、小さいうちに

ストーカーは突然現れる存在ではありません。

関係の中で、少しずつ形づくられていきます。

だからこそ大事なのは、

「これって普通かな?」と感じた違和感を
そのままにしないことです。

違和感は、多くの場合、間違っていません。

恋愛は、本来、自由で安心できる関係のはずです。

もし「我慢」が増えているとしたら、
それは少し立ち止まっていいサインかもしれません。

いい恋愛は、

“我慢が増えるもの”ではなく
“安心してそのままでいられる時間が増えるもの”です。

「離婚したいのにできない」相談がこれほど多い理由

—第12回 女性による女性のための相談会より—

3月22日に開催した「女性による女性のための相談会」では、実行委員として参加したのですが、今回も多くの女性が足を運んでくれました。
相談件数は81件。年代も20代から80代までと幅広く、それぞれが複雑な困難を抱えていました。

その中でも、今回特に目立ったのが
DV・離婚・婚姻費用・養育費に関する相談の多さです。

「生活費を渡されない」というDV

相談の中には、暴力だけでなく、
生活費を十分に渡されない「経済的DV」のケースが多くありました。

「収入はあるはずなのに、生活費をもらえない」
「離婚したいけど、お金がなくて動けない」

こうした状況では、離婚は「意思」の問題ではなく、
構造的に“できない状態”になります。

離婚と同時に立ちはだかる「お金の壁」

離婚を考えたとき、必ず出てくるのが

  • 婚姻費用
  • 養育費
  • 財産分与

ですが、現場ではこんな声が出ていました。

  • 「養育費を減額してほしいと言われた」
  • 「先の生活が見えなくて不安で眠れない」
  • 「制度があっても、どう使えばいいかわからない」

制度はある。
でも、使える状態にない人が多い

ここが一番の問題です。

「離婚したいのにできない」という現実

今回の相談で強く感じたのは、

離婚は“決断”ではなく、“条件が揃って初めてできるもの”だということです。

  • 住む場所がない
  • 収入の見通しが立たない
  • 養育費が不安定
  • 手続きが複雑でわからない

この状態で「自己決定してください」と言われても、
それはほとんど機能しません。

背景にあるのは「女性が尊重されない構造」

家庭でも、職場でも、今回の相談から見えてきたのは

女性が尊重されないことを前提にした社会構造です。

  • 家庭内では経済的にコントロールされる
  • 職場ではハラスメントや性暴力を受ける
  • 困ったときに制度にアクセスできない

これらはバラバラの問題ではなく、
一つの連続した構造の中で起きています。

だからこそ必要なのは「相談の場」

今回の相談会では、弁護士や専門職と直接つながることで、

  • 法的にどう動けるか
  • どんな支援が使えるか
  • 今すぐ何をすべきか

を具体的に整理することができました。

相談に来た方からは、
「助かった」という声も多く寄せられています。

最後に

DV、離婚、婚姻費用、養育費の問題は、
個人の問題ではなく、社会の問題です。

そしてもう一つ大事なのは、

「相談できる場所があるかどうか」で、その後の人生が変わるということ。

だからこそ、この相談会は実行委員として続けていきます。

高校生の恋愛事情を聞いてみた

先日、中高生の居場所におじゃましてきました。
公民館のような場所で、放課後になると子どもたちが自由に集まってくる場所です。

今回は講座ではなく、遊びに来ている高校生たちと雑談しながら、デートDVのことを少しだけ話すという形でした。

用意していたボードに
「YES」
「NO」
を書いて、質問にシールを貼ってもらいます。

「恋人とは毎日連絡を取るのが普通?」
「恋人のスマホを見るのはアリ?」
「恋人が誰といるか聞くのは普通?」
「好きだから心配する、はOK?」

すると、シールがどんどん貼られていきます。

面白いのは、答えがきれいに分かれることです。
「それはイヤでしょ」という声もあれば、
「別にいいじゃん」という声もあります。

そしてもう一つ、印象的だったことがありました。

交際相手がいない子たちは、
「それは嫌だ」「それはおかしい」
と、はっきりNOと言えることが多いのです。

一方で、実際に交際している子たちは少し悩みます。

「本当は嫌だけど…」
「でも相手が心配するって言うし…」
「好きだからしょうがないのかな…」

頭で考えている理想の恋愛と、実際の恋愛とのあいだで、少し揺れている様子が伝わってきました。

LINEの既読や返信の速さ、
誰と遊んでいるのか、
SNSのフォロー、嫉妬、束縛…。

スマホがある時代の恋愛は、つながりやすい分だけ、関係が近くなりすぎることもあるのかもしれません。

今回の時間で何かが大きく変わるわけではありません。

でも、
「それって普通なのかな?」
「自分だったらどう感じるかな?」

そんなふうに少し立ち止まって考えるきっかけになっていたらいいなと思います。

こういう場所で、若者たちの声を聞きながら話す時間は、やはり大切だなあと感じた一日でした。