見えない仏と見えない暴力
見えない仏と見えない暴力
今週末はとある学会に参加するために、京都に行ってきました。せっかく京都に来たのだから、新幹線に乗るまでの短い時間で、駅付近を探索しようと考えました。
京都駅から歩いてすぐのところに、東本願寺(おひがしさん)があると思い出し、行ってみることにしました。とにかく大きな建物で、堂内に入ると人の声や気配が響きあい、あたたかい熱気に包まれているのを感じました。そこから少し歩くと西本願寺。もう少し時間があるので西本願寺(おにしさん)にも行ってきました。こちらは唐門や庭園が美しく、空気がしっとり落ち着いていて、時間がゆっくり流れているようでした。
どちらの本堂でも、阿弥陀如来さまは御厨子の奥にいらして、姿は直接見ることができません。でも不思議なことに、見えなかったからこそ、かえって「場の空気」を強く感じ取ることができました。お東さんでは人々の集まりのエネルギー、おにしさんでは静けさや文化の余韻。仏さまは像としてではなく、空気や声の響きの中にいるように思えたのです。
その時に、DVのことが頭に浮かびました。暴力というと殴る、怒鳴るといった「目に見えるもの」を想像しがちですが、実際には「空気」によって人が縛られていることも少なくありません。たとえば、相手の顔色を伺わざるを得ない雰囲気、言葉にされない沈黙の圧力…。そういう「見えない暴力」が人を苦しめることがあります。
仏さまが見えなくても、その存在を空気で感じたように、DVもまた「見えない形」で存在する。その空気を敏感に感じ取ることが、被害を受けている人には現実なのだと改めて思いました。
だからこそ、私たちは「見えないもの」をどう受け止め、どう言葉にするかが大切なんだと思います。おひがしさんとおにしさんのお寺を歩いた一日は、そんなことを考えるきっかけになりました。
