親の懲戒権と孤立
有名人が娘への暴行で逮捕されたというニュースが話題になっている。
こうした報道があるたびに、社会にはさまざまな反応が出る。
「昔はこれくらい普通だった」
「親も大変なんだから」
「家庭内のことに外が口を出しすぎではないか」
一方で、
「それは虐待だ」
「どんな理由があっても暴力は許されない」
という声も上がる。
この議論を見ていると、今、日本社会は「しつけ」と暴力の境界を大きく見直す時代に入っているのだと感じる。
2022年、民法から親の「懲戒権」という規定が削除された。
これは単なる法律の文言変更ではない。
「親だから叩いてもいい」
「教育のためなら仕方ない」
という考え方そのものを、社会として問い直し始めたということだ。
もちろん、子育ては簡単ではない。
眠れない日々。
思い通りにならない現実。
反抗期。
経済的不安。
孤立。
親自身が追い詰められていることも少なくない。
だからこそ、「つい手が出てしまった」という現実は起こり得る。
しかし、追い詰められていることと、暴力が許されることは別である。
ここを曖昧にすると、「愛情があれば暴力も許される」という危険な考え方につながっていく。
そして、この構造はDVやハラスメントともよく似ている。
「相手のためを思って」
「教育のため」
「成長してほしいから」
「自分もそうやって育てられた」
こうした“正当化の言葉”によって、暴力は見えにくくなる。
特に、有名人の場合はさらに複雑だ。
社会的に成功している。
仕事では立派に見える。
テレビでは優しそうに見える。
すると周囲は、「そんな悪い人ではない」と解釈したくなる。
ここには、私たち社会の「見て見ぬふり」の構造もある。
暴力は、加害者だけで成立するわけではない。
「家庭のことだから」
「昔は普通だった」
「本当はいい人だから」
そうやって周囲が意味づけを行うことで、暴力は“特別なものではないもの”として処理されていく。
ただ一方で、単純に「親が悪い」で終わらせても、問題は解決しない。
孤立した育児。
相談できない親。
感情を言葉で扱うことを学ばないまま大人になった人たち。
「怒鳴る」「威圧する」以外の関わり方を知らない環境。
そうした社会構造の問題も同時に存在している。
だから必要なのは、
「暴力は許さない」
と同時に、
「親を孤立させない」
という視点なのだと思う。
暴力を個人の問題だけに閉じ込めるのではなく、社会全体の課題として考えていく必要がある。
有名人の事件は、単なるゴシップではない。
そこには、私たちの社会が「どこまでの暴力を許容しているのか」が映し出されている。
