苗字について考えた

先日のDV被害女性プログラムで、
「離婚後、苗字を変えるか、変えないか」という話題が出ました。

一見すると、ただの事務的な選択のように聞こえるかもしれません。
でも、参加者の言葉を聞いていると、それがとても個人的で、重たい問いであることがよくわかりました。

「もう元の苗字に戻りたい。
あの人の名前を名乗り続けるのが、つらい」

そう話す人もいれば、

「子どもと苗字が違うのは困る」
「仕事上、今さら変えるのは現実的じゃない」

と悩む人もいます。

中には、
「苗字を変えたら、やっと終わった気がすると思う」
「でも、変えないことで“過去をなかったことにしない”という選択もあるのかもしれない」
と、言葉を探しながら話す方もいました。

印象的だったのは、
どの選択にも「正解」はない、という空気が自然と共有されていたことです。

DVについて考えたとき、名前や呼び方、立場そのものが支配と結びついてきた人も少なくありません。
だからこそ、苗字をどうするかという選択は、
「自分の人生を、これから誰のものとして生きるのか」
という問いと重なります。

変える人も、変えない人も、
それぞれが、自分を守るために考え抜いた選択です。

プログラムの中で大切にしているのは、
「こうすべき」と決めることではなく、
自分で選んだ、と思えること

苗字の話は、そのことを改めて教えてくれました。

離婚はゴールではありません。
その後の日常の中で、こうした小さく見える選択を一つひとつ取り戻していく。
それ自体が、回復のプロセスなのだと思います。

今年も残りわずかとなりました。
年の瀬は、気持ちが少し揺れやすくなる時期でもあります。

一年を振り返って、
「ここまでよく頑張ってきた」と思える人もいれば、
「まだ何も終わっていない」と感じる人もいるかもしれません。

でも、今日ここにいること、
自分のことを考え、選ぼうとしていること自体が、
もう十分に大きな一歩です。

今年一年、このプログラムに参加してくださった方、
ここまでたどり着くまでに、たくさんの迷いや痛みを抱えてきた方、
その一人ひとりに、心からの敬意を込めて。

どうか年末年始、少しでも安心できる時間がありますように。
そして来年が、「自分の名前で、自分の人生を生きる一年」になりますように。

本年もありがとうございました。
どうぞ、穏やかな年末年始をお過ごしください。

ノンストップ出演のご報告と、モラハラについて伝えたかったこと

昨日、フジテレビ「ノンストップ」に出演し、モラルハラスメント(モラハラ)についてお話ししました。
限られた時間ではありましたが、どうしても伝えたかったことがあります。

それは、モラハラの加害者が変わることは、簡単ではないという現実です。

モラハラは、単なる「性格の問題」や「言い過ぎ」ではありません。
相手を支配し、コントロールする関係性の中で繰り返される行為であり、長年にわたって身についた考え方や価値観、行動パターンと深く結びついています。
そのため、周囲が期待するほど、本人がすぐに変わることは多くありません。

「謝ってくれたから」「優しい時もあるから」「次はきっと大丈夫」
そう思って関係を続ける中で、被害は静かに、しかし確実に深刻化していくことがあります。

だからこそ、被害に気づいたら、できるだけ早く相談機関につながってほしいと思っています。

モラハラの怖さは、「これはDVなのだろうか」「私が悪いのではないか」と、被害者自身が判断を迷わされてしまう点にあります。
でも、苦しい、怖い、息が詰まる、自由がない――そう感じている時点で、相談していい理由は十分にあります。

相談することは、誰かを告発するためだけのものではありません。
自分の状況を整理し、これからを考えるための“安全な場所”です。
一つの相談先でうまくいかなくても、別の相談機関を利用して構いません。

「大したことじゃないかもしれない」と一人で抱え込まず、
どうか、つながってください。

今回の出演が、
「これっておかしいかもしれない」
「相談してみようかな」
そう思うきっかけになっていたら、これ以上うれしいことはありません。

東京都の職務関係者研修で講師を担当しました

 東京都が毎年6回実施している「職務関係者研修」にて、
今年は 講義1とセッションの進行役 を担当させていただきました。

 対象は、DV・虐待・困難ケースなどに日々向き合っている行政職員、地域包括、民生委員、子育て支援者等のみなさん。
オンライン開催にもかかわらず、多くの方が熱心に参加され、画面越しでも“現場で何かを変えたい”という思いが伝わってくる、とても濃い研修でした。

 講義1では、
DVの見えにくさ、否認の病、支配構造、近しい人の役割、そして連鎖を断ち切る支援についてお話ししました。

 暴力は突然大きな形で現れるのではなく、日常の中の“小さな違和感”の積み重ねの中で進行します。
だからこそ、支援の入り口になるのは、制度や専門家よりも 「その人のそばにいる誰か」 なんですよね。

この視点にチャットでもたくさんの反応をいただきました。

講義2の中板さん(武蔵野大学教授)のお話も本当に素晴らしく、特に印象に残ったのは、

  • 「否認の病」
  • 「家庭内の暴力は見えにくい」
  • 「近くにいる人が関与することが鍵」

という三つのポイント。「暴力の物語が家庭の中で書き換えられてしまう」という言葉は、支援者としても改めて肝に落ちる内容でした。

 その後のセッションでは、障害×DV、高齢者夫婦のDV、地域の顔の見える連携など、
現場ならではの質問がどんどんチャットに寄せられ、ウェビナーとは思えない熱量でした。時間に限りがあり、すべての質問にお答えできず申し訳ない気持ちです。

 DVも虐待も、”特別な家庭で起きる問題”ではありません。

 孤立・否認・沈黙がそろうと、どの家庭でも起こりうるし、だからこそ 「近くの誰かの気づき」 が本当に大事。

 今回の研修は、その気づきのアンテナを地域全体で育てる試みだと感じました。
私もまた、できる場所から一歩ずつ関わっていきたいと思います。

 こうした学びの場に関わらせていただけることに感謝しつつ、
これからも女性支援・DV予防・地域づくりに携わっていきたいと思います。

「見えない暴力に気づく力を育てる――東京都職務関係者研修に登壇して」

昨日、東京都が実施した「職務関係者研修」で講義とセッションを担当しました。
対象は、DV・虐待・困難ケースに日々向き合っている行政職員や地域支援者、民生委員のみなさん。
現場で最前線に立つ“支援の担い手たち”が一堂に会する貴重な研修です。

今回あらためて感じたのは、
暴力とは「見えるとき」より「見えないとき」に深刻化する
ということ。

武蔵大学の中板先生の講義では、まさにこの“見えなさ”が丁寧に言語化されていました。

否認の病が、家庭の中で暴力を覆い隠す

DVや虐待がなぜ外から見えにくいのか。
その理由のひとつに 「否認の病(Denial)」 があります。

加害者は、
「そんなつもりじゃない」「怒らせた相手が悪い」と自分を正当化し、
被害者は、
「私が耐えればいい」「大げさにしたくない」と自分の痛みを小さく扱ってしまう。

家庭の中で“現実の書き換え”が起きる。
これこそが暴力の本質であり、支援が届きにくい最大の理由です。

過去の虐待経験と現在のDVは、同じ根っこを持っている

もうひとつ印象深かったのは
「虐待の連鎖」 の話。

虐待を受けた人が必ず加害者になるわけではありません。
でも、暴力を“関係性のモデル”として学習してしまうと、
自分が大切な人と向き合うときに、同じパターンが繰り返されやすい。

しかし連鎖は、
周囲の誰かが関わることで確実に断ち切ることができる。

これは私も支援現場で痛感してきた真実です。

その人のいちばん近くにいる誰かが、鍵を握っている

暴力の連鎖を止めるのは、
必ずしも専門家だけではありません。

・民生委員
・学校の先生
・地域包括の職員
・同じ自治体内の職員
・職場の同僚

その人の近くにいる“たった一人”が気づくこと。
この小さなきっかけが、暴力からの出口になります。

今回の研修でも、
「違和感を覚えたときにどう動けばいいのか」
「どこまで踏み込んでいいのか」
といった質問が多く寄せられました。

それは、みなさんが本気で地域を守りたいと思っている証拠です。

ウェビナー越しでも、熱量は確かに届く

今回はオンラインのウェビナー形式でしたが、
画面越しにも、参加者の真剣さがしっかり伝わってきました。

チャットには絶えず質問が届き、
「地域での顔の見える連携」
「障害とDVの交差」
「男性被害」
「高齢者夫婦のDV」
など、まさに現場で直面している課題が並びました。

オンラインでも、
“支援の現場をもっとよくしたい”という思いは確かに集まる。
そんな時間でした。

最後に――暴力は孤立の中で強くなる。つながりの中で弱まる。

DVも虐待も、
“悪い家庭で起きる特別な問題”ではありません。

孤立、否認、沈黙。
この3つが重なると、どんな家庭でも暴力は起きうるし、長期化します。

そしてそれをほどくのは、
つながり・対話・気づき・寄り添い。

制度や法律だけでは届かない場所を、
“人”が補っていく。

今回の東京都の研修は、
その大切さを再確認する機会でした。

支援に携わるすべての方に、心からの敬意を込めて。
そして、今日学んだことが、
どこかの誰かの「出口」につながることを願っています。

ガスライティングは“心の骨折”——見えない暴力の正体

「あなた、気にしすぎじゃない?」


その一言で、自分の中の何かがふっと揺れる。
“あれ、私のほうがおかしいのかな?”
そう思った瞬間から、ガスライティングは静かに始まるのです。

ガスライティングは、殴るわけでも怒鳴るわけでもありません。
もっと静かで、もっと厄介です。
相手の“感覚”そのものを疑わせ、少しずつ自分の現実感覚を奪っていくのです。
私はこれを 「心の骨折」 と呼んでいます。
外からは見えないし、本人でさえしばらく痛みに気づけない骨折です。

例えば、こんな会話があります。

「そんなことあったっけ?」
「大げさだよ、いつものことじゃん」
「お前が勘違いしてるんだよ」
「みんなそう言うと思うよ?」
「おかしいのは、君じゃない?」

最初は小さな違和感。「あれ?」で終わると思います。
でも、半年、1年と経つうちに、
“自分の感覚より相手の言葉が正しい気がしてくる”のです。
ここまで来ると、もう深い骨折です。

しかも、この行為が起きる背景には、
単なる性格の問題ではなく、
ジェンダー規範や権力関係、組織文化といった大きな構造が潜んでいることが多いのです。
「大げさだ」「ヒステリックだ」「気にしすぎ」というラベルは、
特に女性に向けて使われやすいと思います。
現場にいると、この“構造の後押し”の強さをいつも思い知らされるのです。

ガスライティングの怖さは、
殴られたときよりも “自分を疑い始めたとき” が最も危険 だということです。
自分の感覚を捨ててしまったら、
もう逃げたくても逃げられない。
判断基準ごと相手に預けてしまうから…。

でも、骨折には治療法があります。

まずは 「あれ、おかしいな」 という小さな違和感を大事にしてほしいのです。
自分の感覚は自分だけのもので、
誰かが書き換えていいものじゃないのです。
そして、たったひとりでも味方がつけば、現実は取り戻せます。
「それはおかしいよ」と隣で言ってくれる人がいるだけで、
折れた心はゆっくりと修復を始めることができます。

ガスライティングは見えない暴力です。
けれど、見えるように語り始めた瞬間から、
その支配は弱まっていきます。
私たちの言葉は、あの静かな骨折から誰かを救う力になります。

ガスライティング(gaslighting):1944年の映画『Gaslight』で、夫が妻を操作するためにガス灯を暗くし、
「あなたの見間違いだ」と否定し続けた描写に由来する言葉です。


相手の見た事実・感じたこと・判断を繰り返し否定し、
「自分のほうが間違っている」と思い込ませる心理的支配します。
被害者は自尊心や現実認識を奪われ、加害者に依存しやすくなるのです。
DV、モラハラ、ハラスメントの場面で典型的に見られます。

サプライズがうまくいかない日だってある

―「よかれと思って」の裏側にある気持ちを見つめてみる―

今日のDV加害者プログラムでは、「サプライズ」の話がいくつも出てきました。
誰かを喜ばせたくて、よかれと思ってしたことが、思ったように受け取ってもらえなかった——
そんな経験、誰にでもありますよね。

サプライズは本来、相手を想う気持ちから生まれるもの。
でも現場で話を聞いていると、ときどきこんな声が聞こえてきます。

「がんばったのに、どうして喜んでくれないんだろう」
「うまく伝わらないって、つらい」

その言葉の奥には、
“相手を想う気持ち”と“自分も大切にされたい気持ち”の両方があるんだと思います。

サプライズって、実はむずかしい

なぜサプライズがこじれてしまうのでしょう?

一番の理由はこれかもしれません。

“相手の気持ちを想像する”ことが、思っている以上に難しいから。

良かれと思って動いたのに、相手の望みとはちがってしまう。
そのズレが、がっかりしたり、不安になったり、怒りに変わることもある。
今日のみんなの話にも、そんな揺れがたくさんありました。

でも、それは「悪いこと」ではありません。
大切な人を思っているからこそ、期待して、反応に揺れてしまう。
人として自然なことなんです。

相手からはどう見えていたんだろう?

今日のワークでは、“相手の気持ちを想像する”という時間がありました。

そこで出てきたのは、意外と静かな、だけど深い言葉たち。

  • 「気をつかわせちゃったかな」
  • 「タイミングじゃなかったのかもしれない」
  • 「本当は別のことを望んでいたのかも」

“喜ばせたい”という気持ちが先に立つと、
相手の小さなサインが見えなくなることがあります。

でも今日、参加者の多くが
「ああ、自分は相手の自由や気持ちより“結果”を見ていたかもしれない」
と気づいていました。

その気づきって、とても尊いことです。

「どう見られたいか」より「どんな存在でありたいか」

プリントに書かれていた一文。今日いちばん響いた言葉でした。

“相手からどう見られたいか”より
“相手にとって自分がどんな存在でありたいか”

この視点に立つと、サプライズはもっとやさしい形に変わります。

無理をさせない。
気をつかわせない。
「いらない」と言える自由を残す。

その余白の中で初めて、
心からの「ありがとう」が生まれるんですよね。

さいごに:サプライズは“心の距離をはかる羅針盤”

サプライズは、ときどき失敗します。
でも、失敗は悪いことじゃありません。

そのたびに、

  • 相手は何を大切にしているんだろう
  • 今の自分はどう関わりたいんだろう
  • どんな距離感が心地よいんだろう

そんなことをそっと教えてくれます。

今日のみんなの言葉を思い返しながら、
わたしは“サプライズって、関係性の羅針盤みたいだな”と感じていました。

無理に喜ばせなくていい。
完璧じゃなくていい。
ただ、丁寧に相手を見ること
そこから関係は、静かに、でも確かに変わっていきます。

怒りを止める勇気 ― 「立ち止まり、言葉で戻る」という選択

「怒りって、悪いことじゃないんですね。」

DV加害者プログラムの中で、そんな言葉がよく聞かれます。
多くの人が、「怒り=悪」「我慢=善」と思い込んでいます。でも本当は、怒りは誰にでもある自然な感情です。問題は、どう表現するか

プログラムでは、「早期に気付いて立ち止まり、言葉で戻る」という教材を使います。ここで学ぶのは、暴力を止めるための二つの力――タイムアウトポジティブ・セルフトークです。

タイムアウトは“逃げること”じゃない

自分の中に「まずいな」と感じるサインがあります。
顔が熱くなる、手が震える、呼吸が浅くなる――その瞬間が、立ち止まるタイミング

「今、冷静じゃない。少し離れます。」

そう口に出して場を離れる。それが「タイムアウト」。
一見、逃げているようでいて、実は暴力を止めるための行動なんです。
外に出て深呼吸する、トイレで少し静かにする。大事なのは“距離を取る勇気”です。パートナーにとっては、「せっかく話しているのに逃げるのか」とがっかりする人も、さらに怒りが増す人もいるかもしれません。


言葉で自分を落ち着かせる

離れたあとに必要なのが「セルフトーク」。
つまり、自分を落ち着かせるための言葉です。

「この怒りは一時的だ。」
「今は話さないほうがいい。」
「深呼吸だ。3回だけでいい。」

そんな言葉を、自分のために“用意しておく”。
誰かを責める代わりに、自分と対話する時間を持つことが、再び“言葉で戻る”力を育てます。


離れる勇気、戻る力

タイムアウトとセルフトークはセットです。
離れるだけではすれ違いが深まる。戻るだけでは感情が爆発する。
だからこそ、「離れる勇気」と「言葉で戻る力」を一緒に練習します。

ある参加者が言っていました。

「怒りを抑え込むんじゃなくて、“扱えるようになる”ことが目標なんですね。」

その通り。怒りを“悪”と切り捨てず、安全に扱う力を育てていく。
それが、暴力の連鎖を断ち切るための第一歩です。

お互いに冷静になったときに、また二人で向き合って話しましょう。もし二人で何か少しでも話すと暴力になってしまうという恐れがある方は、誰かに助けを求めましょう。

そして冷静になって、プログラムに参加しましょう。

「本当の強さ」を取り戻す時間——DV被害女性プログラムでの一コマから

第5期目に入ったDV被害女性女性プログラム。今回のセッションのテーマは「強さ」でした。
けれど、それは誰かに勝つ強さではなく、自分を守り抜く力のことなんです。

参加者のひとりが「もう負けたくない」と言いました。
その言葉の奥には、長いあいだ押しつぶされてきた気持ちと、ようやく自分を取り戻そうとする意志が混ざっていました。
けれど、本当の強さは、ケンカに勝つことじゃないんです。健康を守ること、心を壊さないこと、そこから始まるんだということが語られました。

DV加害者の多くは、自分を「強く」見せようとします。
怒鳴り声、支配、威圧。けれどその実、彼らの強さは虚勢です。
自分の弱さや不安を覆い隠すために、他人を傷つけるのです。
その「強がり」は、強さとは真逆の脆さの表れでもあります。

一方で、被害を受けてきた女性たちは、沈黙や我慢のなかで生き延びてきました。
「自分を守る」という選択を後回しにしてきた人も多いのです。
だからこそ、今日のセッションではこう語られました。
強い自分になる第一歩は、自分の体と心を大切にすること。
十分に休み、食べ、助けを求めることも「強さ」のひとつだと。

誰かを打ち負かす強さよりも、
自分を見失わないしなやかさを育てていくこと。
その過程にこそ、「主体的に生きる力」が宿るのだと思いました。

研修であらためて考えたこと

今日は某市役所の障害福祉課職員のみなさんに、「女性を取り巻く福祉課題と支援の実際」というテーマでお話ししました。
秋晴れのなか、会場の空気は穏やかで、真剣さとやさしさが同居しているような時間でした。

話のはじめに伝えたのは、「正規雇用が減った」のではなく、もともと女性が正規に入りにくい構造にあるということ。
非正規雇用、ケア責任、単身化――この“三重のリスク”が重なったとき、努力や根性ではどうにもならない壁が立ちはだかります。
それを“自己責任”で片づけないために、制度や社会の側がどんな仕組みをつくれるかが問われています。

DVの話では、「暴力=怒り」ではなく「暴力=支配」という構造を共有しました。
加害者プログラムでも大切にしているのは、“怒りを抑える”ことではなく、“支配を手放す”こと。
被害者支援と加害者支援を車の両輪のように進めていくことで、初めて本当の安全が生まれるのだと思います。

そして後半は、制度のはざまをどうつなぐか。
「誰が主担当か」より、「誰が一番近くにいられるか」。
この視点を行政と民間が共有できたら、支援はもっと息づくものになるはずです。

最後に紹介したいくつかの事例――
それぞれ異なるケースでも、共通していたのは“行動”ではなく“関係性”を見ることの大切さでした。

今日の研修を通して、あらためて感じました。
制度は線でできているけれど、人の困りごとは面で起きている。
支援の現場をつなぐのは、制度でもマニュアルでもなく、「寄り添う姿勢」そのものなのだと思います。

家事も育児も担う夫、それでも続く苦しさ

 以前、こんな相談があったことを思い出しました。

 「彼は家事も育児を分担し、周囲からは「理想的な夫」と言われます。だから、何か言われても、言い返すこともできないんです。」


 「正体はよくわからないけれど、家庭の中でなんとなく息苦しさを感じている」という女性は少なくありません。
言葉の端々に潜む否定やいやみ、きげんの変化に怯える日々。
手をあげられなくても、心が少しずつ削られていくことがあります。

 暴力とは、怒鳴ることや叩くことだけを指すわけではありません。
相手を支配し、萎縮させ、自己判断を奪っていく関係性そのものが、
静かな暴力になっていきます。

 「これほどやってくれているのだから、文句は言えない・・・」


 その思いが、被害を覆い隠す仕組みの一部になってしまうこともあります。
我慢を続けてきたのは、弱さのせいではありません。


 関係を壊したくなかった、子どもを守りたかった、
その一心で生き延びようとしてこられたのだと思います。

 もし今、少しでも違和感や疲れを感じているなら、
その感覚を軽く扱わないでください。
優しさと暴力は、同じ人の中に同居することがあります。
たとえ外からは見えにくくても、
あなたが感じている痛みは確かに存在しています。

一緒にその正体を考えてみませんか。
10月22日から第5期のDV被害女性プログラムが始まります。

関心のある方はこちらをご覧のうえお申し込みください。